Capsuleのニューアルバムが灰色だったことに関連した随想

人生を灰色と形容したり、理想の生活は?と聞かれて「穏やかな絶望感」と心から性格悪そうに答えられるような状況におかれているときが、自分の場合もっとも気分が乗っている時です。

なんだかんだ言っても物を書くという趣味は現実逃避的要素を強く含んでおり、その度合いが”外”の色の付き方を目安に計れるとしたら、それは物書きとしての自分にとって望ましいことであり、ふっと見上げた景色が目の前で灰色になっていくとしたらそれほどの高揚はそうそうないでしょう。

世の中にはモノクロの夢を見る人がいると言いますが、生まれてこの方その話を聞くまでそんな夢を見る人がいること自体想像もしたことがありませんでした。なんだかんだといっても自分の頭の中は常にフルカラーでまわっているようなのです。空想に色を付けるだけの余裕が頭の中にあるのか、あるいは無駄なものにまで気を回しすぎていることの証左なのか。

音楽を聴きながらビルの下を歩いていると周りがどんどん色あせていくような錯覚に襲われて、もうたまらなく楽しいことがありますが、頭の中まで灰色に染まりきった世界はあれよりももっと無機質で冷たいのでしょうか。

一度でいいから真に灰色な世界を歩き回ってみたいのです。太陽や道をすれ違う他者の妙に白みがかったツラは自分にどんな表情をして俺を楽しませてくれるのか。いや、一度だけ、モノクロな世界におかれてみたいものです。

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このページは2006年7月13日に書いたブログ記事です。

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