最近ホラー・パニック系映画をSFと勘違いして借りてきてしまうことが多い。
「誰もいなくなっちゃった」「街が廃墟に」の原因を何故揃いも揃ってクリーチャーに求めるんですかハリウッドは。毎度毎度「あれ?こんな映画なの?あれ???」みたいな、一人やたらおろおろしながら見る羽目になるいい大人の身にもなっていただきたい。
まあ借りて来ちゃった以上、もったいないから全部見るわけですが、いつものようにぬるぬるクリーチャーが出てきたのに今回のは特に怖くない。登場人物はキャーキャー言ってるけど・・・あ、なんか小さいのが出てきた、カサカサカサって、イヤー!ギャー!!
そういえば「でっかいの」が出てきて怖かった映画って記憶にありません。初代ゴジラを劇場で見たというお方と話をしていて「ビルの向こうを同じくらいでかい影が横切っていくわけだよ、な、分かるだろ?この怖さ?」と言われたときには、気持ちは分かるんだけど、どうもピンとこないんだよなあと思ったものでした。
カサカサが出てきて一気にギャーとなってふと思うと、現代人のメンタリティにゴジラ的脅威というのはそぐわなくなってきたのかもしれません。ゴジラとは圧倒的な力の固まりであり「このままじゃ日本が壊れちゃう」怖さがある反面で、少し離れて見ているぶんにはあまり怖くなさそうな印象があります。ゴジラはあくまで”個”なので、単体の”個”と自分が向き合う羽目になる機会は実際のところあまりないだろうなあ、と。
対してカサカサやエイリアンは”個”がはっきり自分を狙ってきます。三人称と一人称の怖さの違いと言っていいかもしれません。今の人間・・・というかまあ、少なくとも自分に限って言えば、社会が壊れることへの恐怖はきわめて希薄で、自分という”個”が脅威と対峙する段階になって初めて恐怖を感じるような精神構造になっていると、勘違いして借りてきた映画で変なことに気づかされてしまいました。
これが現代社会のメンタリティと括ってしまえれば簡単なんですが、どうも昔から「ゴジラが攻めてきたときに逃げる避難民と逆方向に走っていける生き方をしたい」と言っていたあたり、根はもっと深いところにあるようです。それが何なのかは不明。